ある時から書くことが少なくなってしまったのは、
書く出来事がないわけじゃなくて
生活と書くことの境目が分からなくなったからだった。
ある時、どちらかというと自分にとっていやな出来事を書いたとき、
全然ちがう友人から、あれは私のことではないかと心配そうに聞かれた。
それからもういやなことは書かないように心がけて、
それからもういやなことは書かないように心がけたけれども、
いくら自分にとってただ面白いと思う出来事でも、その関係者にとって
それが文章になり人の目に触れることを含めて面白いと思ってもらえるか分からないんだと思った。
今度は面白い出来事を書いたけれども、
もしかして、それが文章になって人の目にふれることがいやな人もいるのかもしれないと思い、
一応友人づたいに本人に確認してもらった。
あだ名だとしても、
一部分でも本名が出るのはいやとのことだった。
そうすると、いくら自分がよいと思っている文章でも、
それがいやな人がいるんだとなって、
登場人物には確認をとるようになった。
でも、あるとき、
自分は何をやっているんだろうと思った。
何かを書いて、それを人に確認する。
出版社でもなく、登場する、日常の人物に、
確認をとる。
いいよ~と言ってもらえるのが大半だけど、
ちょっとここは消して、などと返ってくることもある。
悪いことをやっている気がしてきた。
だから、何を書いて、
何を書いたらいけないのか、
さっぱり分からなくなって、
だけど自分にとって、書くことが自然なことだから書いてるわけなんだけど、
だから、さっぱり何も分からなくなって。
だから書くことと生活の境目はないとも言える。
友だちがいなくなってもいいから、書こうと思う。
2025年2月17日
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長く連絡をとっていなかった友人からメッセージが来た。
どうやら私が貸していた本があったらしく、
それを郵送でもよければ送ります、とのことだった。
借りた本はわりと覚えている方だと思うけれど、
貸したその本のことは忘れてしまっていた。
作家名を見てもまるでピンと来なかった。
(メッセージに本のタイトルは書かれておらず、
○○の本、と作家の名前だけ書かれていた)
携帯で調べてみて、著書を見てもまだピンと来ず、
出版された本も多くはなかったので一冊ずつ記憶にありそうなものか近づけてみる。
一番、なんとなくそうなのでは?
と思う本のあらすじを見て、
たぶんこれだろうと思い至った。
その本を、どうして手に取ったのか、
作家名を聞いてもピンと来なかったくらいだから
まるで覚えていなかった。
そうして改めてその著者の出版本を見ていて、
読みたくなったので
短編を51も集めた本で、
まだ4つめだけど、もうすごく面白いからその4番目
「二度めのチャンス」の最初をご紹介しておきたい。
二度めのチャンス
失敗から学べるものならそうしたいが、世の中には二度めがないことが多すぎる。じっさい、
いちばん大切なことは二度ないことだから、二度めにうまくやることは不可能だ。何か失敗をして、
どうすればよかったのかを学習する、そして次こそうまくやろうと心構えをしていると、次の出来事は
前のこととはまるでちがっていて、また判断をまちがえる、そして今回のことについては心構えができるが、
同じことが繰りかえされることは二度となく、けっきょく何の心構えもできないまま、また次の出来事が起こる。
ほら、おもしろいでしょう。
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